忘れ得ぬ人々 (11) 父・石塚金太郎 ①

在りし日の石塚金太郎講師

 石塚 惠造 

 父・石塚金太郎は二十歳の時に、大東亜戦争に「国家の為に行く、そして靖国神社へ行く」と両親に伝え自ら志願し陸軍に入った。そして、厳しい訓練を経て、大陸の戦場に向かった。ある時、二度目の作戦で敵弾に当たり、弾丸は父の鎖骨の間を抜けて上顎(うわあご)、下顎を打ち砕いた。早朝の闇夜の中、周り中が敵だった。負傷した父を仲間が麦畑の中に引きずり込み、三角巾をあてただけの手当をして「暗くなったら迎えに来る」と言って引き返していった。父は迎えが来るまでの間、痛みは感ぜず「もし生きて戻ったら神・仏が知りたい、たとえこのまま命絶えても、靖国に行くんだ」と心は感謝と喜びに満たされていたそうだ。また、不思議なことに、少し離れた所に、母親がいて、ずっと自分を見守っていてくれたとも父は言っていた。やがて、「お前、よく生きていたな」と声が聞こえ、その時、自分は生きていたと、生気を取り戻したそうだ。暗闇の中、父は衛生兵によって担架に乗せられ、匍匐(ほふく)で担架を引っ張る懸命な救出作戦のおかげで無事、野戦病院にたどりついた。その後はジープで各所の野戦病院を点々と本国に向かって戻されて、やがて箱根の療養所に生還した時に終戦を迎えたそうだ。療養所で足の骨を上顎と下顎に移植し、お尻の皮膚を移植して顔の輪郭を整え、しばらく静養して退院。久しぶりに実家に戻ると、大騒ぎとなった。それも無理はなく、父の所属していた部隊は全滅、父は戦死と知らされて、戸籍も抹消されていたのだ。父の持ち物は全て処分され、浴衣は姪のおしめになっていた。父の顔は、当時入れ歯も、まだできておらず、手術の後の変形と傷で人相が別人の様に変わってしまった状態だったので、本人だと言っても、信じてもらえず、とても苦労したと言っていた。

だんだん生活も整い、入れ歯(最初の入れ歯は、噛むためのものではなく、口の中を保護して顔の輪郭を整えただけのもの)も出来上がった頃、父は、母・ふじ江と結婚(昭和二十三年五月二十四日)川口市のとても古い二階建ての貸家に住み始めた。そこでの生活で兄と私と妹が生まれ三年ほど暮らしていた。その貸家は父の友人が借りた家で私達家族は居候したのだ。生活は苦しく、軍隊で使っていた飯盒(はんごう)でご飯を炊き、鉄かぶとで味噌汁やうどんを煮ていた。燃料は鋳物工場の廃材の中から、コークスや木屑を集めて使っていた。また兵隊の時に使っていた手甲やゲートルは、手にまいたりして兄と遊んだことを今でもなつかしく思い出します。父の仕事は芝浦埠頭の日雇いだった。幸福になりたい、お金があればと、時々競輪に行っていた。

 その時のことを「ついに運命の時が来た」と父は言っていた。その日、仕事に出かけたが仕事はなく、仕方なく家に戻りお金を持ち出しては競輪場に向かって荒川大橋を渡って行くと中ほどで下駄の鼻緒が切れた。今日は行ってもだめだと思い、そのまま引き返した。橋の袂まで来たところ「幸福になりたい者は来たれ!」と書かれた「生長の家」講演会の看板が土手に立っているのが目に止まった。

          (以下次号につづく)

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