忘れ得ぬ人々 (12) 父・石塚金太郎②
石塚 恵三
「生長の家講演会」の会場を訪ねてみると、そこは亡き松尾先生(昭先生のお父上)のお宅でした。話を聞いてみると「生命の実相の講話」で、「なんと素晴らしい教えなのだろう、あの時自分が麦畑の中で仲間が迎えに来るまで待つ間、神、仏が知りたいと強く思った。その神、仏の世界がよくわかる」その時の喜びと感動は、天にも登る様だったと父は常に語っていた。
それからの父は生長の家の行事には必ず参加するようになり、生活はどんどん良くなっていった。そして、「生長の家の行事をするためには家がほしい、家族のためにも家があれば」と祈っていた。松尾先生に相談すると、先生は、父に「私の言うことをあなたは実行できますか?」と念入りに二度言われたそうだ。父は「はい、できます。やります」と答えた。「それでは教えましょう」とご指導いただいたことは「今から、『我が家が与えられました、ありがとうございます。ありがとうございます。お父さんお母さんありがとうございます。ありがとうございます』これをできるだけ言葉に出して言いましょう。できますか?」父は「はい」と答え、その後は我を忘れて繰り返し、繰り返し唱え続けたと言っていた。
そして春のとても気持ちの良い休日、「父ちゃん、今日はお天気が良いから子ども達を連れて散歩でも行ってみたら?」と母が言ったので、父は私と妹を自転車に乗せると汐入通りを北に向かった。土手の畑に麦の穂が風に揺れていた。どことなくなつかしく思ったので、「ここで一休み」と自転車を止めた。子ども達ははしゃいで畑の周りを走り回った。そんな様子を見ていたら〝ここだ〟と閃いた。「ここはどういう土地だろう、誰の持ち物だろう」と、父はすぐに市役所に行くと、そこは川口ではなく鳩ケ谷だと言われて今度は鳩ケ谷市役所に行ったそうだ。すると係の人が親切に教えてくれた。その場所は見沼用水の荒川に落水する用水で「安木落とし」の土あげ敷(川淩えの土を上げる場所)であることがわかり、前田村の所有であることもわかった。父はすぐに「土地の管理を譲っていただけないか」と村の責任者に願い出たところ、快く受け入れてくれた。土手の畑も県から借りることも出来て、とうとうこの場所に家が建つことになった。
父は家の中心に仏壇を据え、神棚を祭り。その神棚の横には棚を吊り大きなラジオを載せた。毎週谷口雅春先生ご指導のラジオ放送、『幸福への出発』を家族で聞いていた。父は「生長の家で救われた」と常に言っていた。父は地方講師となり、愛行、誌友会開催、早朝神想観、常に多くの人々を祈っていた。
亡き父の聖経は何回も和紙で補修したので倍以上の厚さである。また聖典の行間は書き込みでびっしり埋まっている。それらはわが家の宝となっている。