忘れ得ぬ人々 (13) 母・渡邊ヨシの思い出 素直に行じる母でした    

                           新井 倫子

 母は平成六年五月三十日、安達秀一講師出講の誌友会の開会の祈りの途中で倒れて、日赤に運ばれました。沢山の方々にお祈りいただきましたが六月七日に六四才で昇天しました。私は、「先祖供養祭といえば〝母〟というほど熱心に行じていたのに、なぜくも膜下出血で倒れたのだろう」と不思議に思いましたが、ご使命が終わったのだなと自分を納得させました。

 母は七人兄弟の三番目に生まれました。自身の兄と母親が肺結核で倒れた時、実家である藤田家に生長の家が伝えられ、そこで病から起ちあがった兄が、危篤状態だった大親友(渡邊富雄)に生長の家を伝え、その後その親友と母は結婚、渡邊ヨシとなりました。 

 私たちは講演会や講習会などで聞いてきた体験談などを母が話してくれるのを聞くのが楽しみでした。

 いつのころからか〝わが子よありがとう〟の歌を母の口から聞くようになりました。ちょっと調子っぱずれの歌でしたが、母はとても素直で、良いと言われたことはすぐ実行する人でした。

 「天国成就の歌」など教化部で初めて聞いた歌は、教えてほしいと言われて何回かピアノで音を録ってあげたことがあります。洗濯をしながら、食事の後片付けをしながら、真理の言葉が説かれた聖歌をよく歌っていました。歌ばかりではありません。掃除をしながらお経のように「これでよくなる、だんだんよくなる、きっとよくなる…」と、繰り返し繰り返し善いことばを唱えていました。本当に素直でした。

 私が結婚した後、母は講師になりました。

 講師になってから、母は楽しそうでした。教化部に行くことが増え、お友達も増え、勉強できることを喜んでいました。四時半に起きて早朝神想観にも父と一緒に通っていました。個人指導もしていたようで、今我が家の誌友会に母とご縁のあった方が来てくださっています。練成会の御炊事も担当していました。その頃のお話を教えてくださった方によると、ひたすら黙々と手を動かしている母だったとのこと。包丁の研ぎ方を教えてもらったという方もいらっしゃいました。お炊事のお手伝いで母の料理のレパートリーも増え、盛り付け方など勉強になることが多かったと聞きました 。

 娘たちはみんな長男と結婚していて、それぞれの悩みを話すと、返ってくる言葉は決まって「感謝しなさい。」わかっていましたが、それでも聞いてもらいたくて電話していました。感謝はすべてを癒す。それがわかるようになったのは、大分後になってからです。

 今、姉妹がそれぞれの場で生長の家のお役をいただいて活動させていただいています。一人でも多くの方に真理をお伝えしていくことがわが家に生長の家の真理を伝えていただいたことへの恩返しだと思っています。

         

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