忘れ得ぬ人々 (14) 藤原良一講師の思い出         

藤原聰子

 義父、藤原良一講師は、亡き主人、誠の父で主人は三男で六歳下の妹と四人兄妹でした。
 義父が亡くなられて今年は四十二年になります。私が結婚した頃(四十六年四月)義父は埼玉県教化部、浦和本太の養心会館で相愛会と生政連の県連会長として活躍していました。
 昭和六十二年に発刊された埼玉県における生長の家人類光明化運動史『聖風―今愛のはばたき』によりますと、
「藤原良一氏は昭和二十六年に東京より蕨に転入、結成されたばかりの蕨相愛会員となって、夫人のしげ子さんと共にその育成発展に協力、県連の幹部となり、県内開拓に当たられた。更に県連会長に就任すると共に、人材を登用して組織の充実をはかり、運動の展開に貢献された。」(二十二頁)とあります。  
 更に藤原良一は相愛会県連会長に昭和三十五年六月より四十三年十月までと四十六年十月より四十九年十月まで就任。生政連会長には昭和四十年三月より四十六年十月まで就任しています。その間、昭和四十二年二月十一日に本太の旧教化部落慶。
 三十二年四月から埼玉県教化部は本部直轄になり三十三年荒木登先生が教化部長として赴任されました。当時はまだ聖使命会も発足後日も浅く、事務局は無きに等しく専従の事務員もおらず、西田佐典講師会長宅が教化部となり、県内信徒の依りどころでありました。そして「専ら故藤原良一先生が愛行一筋に事務と運営面で活躍していた」旨記されています。
 蕨に来た昭和二十六年、主人は一歳です。義父母は四人の子供の親として、また会社の経営者として忙しかったはずですが、甥の藤原義博さんが会社の専務として会社を守り、後に入社した次兄と主人を育て指導してくださったのです。(長兄は弁護士になりました)のちに義父は、青年だった長堀耕衛先生や安藤秀一先生などを社員として迎え入れて、生長の家の行事等に自由に活動できるようにされていたことも主人より聞いています。
取引先には、毎年〝日訓〟を配っていたとのことです。口数が少なく遠くから私達を見守ってくださる優しい人でした。
私達の結婚二年後、四十八年、義父は本部講師・森安子先生と再婚されました。本部近くの原宿に移り安子義母には本部講師としての仕事を続けてもらうことが義父の生き甲斐でした。晩年車椅子の生活になりましたが、家政婦さんのお世話になりながら穏やかな私達の身近な父となり、安子義母に見守られて幸せな一生でした。
義父がどんなご縁で教えに導かれたのか解りませんが、会社経営の傍ら生長の家に一身に投じられ、現在の教区の基礎を築いてくださったことはとても嬉しく、誇りに思います。
お義父さんありがとうございました。
  

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