忘れ得ぬ人々 (19) 夫、山本良秋との出会い   山本 榮 

            

昭和三十年九月、親戚の叔母に誘われて上京したその翌日、文京区青年誌友会に案内されて、そこで青年会の役員であった山本良秋さんと初めて出会いました。

当時茗荷谷の塚原医院の三畳の部屋を借り、そこを拠点に各大学研究室に科学薬品を販売する「山本薬品商会」を独立開業した時でした。日本橋の問屋への仕入れはすべて現金取引きの時代でした。

良秋さんは、毎朝の出発の祈りはただひたすら「今日の仕入れもスムーズに行きますようにお導きください。もしそうでなければ今すぐにでもつぶしてください」。ある時、「仕入れの為に百万円下さい」と、その時フト祈りの言葉の間違いに気付き「今日の仕事が神様の御心の如く人々の幸せのためにお役に立ちます様に」と祈りの言葉を変え、これが正しい祈りと気づいた。初めて聞く誌友会場で、彼の語るこの話に私は信仰心の厚い人だと感動しました。以後語る言葉は常に前向きで明るく、楽しく元気溌剌、このような人との生活は楽しいだろうなあ、そんな気持ちをチラッと感じました。

昭和三十二年に結婚。あっという間の四十年でした。平成十年二月十四日に二十日間の入院から退院予定だったその日に天国に旅立ちました。

様々の思い出を残してくれました。入院前の或る日の朝食の時突然「長い間ずいぶん世話になったなあー」びっくりです。「お互い様でしょう」とさりげなく聞き流してましたが今となっては重く心に残ります。

昭和三十八年、東洋大学工学部創立当時、大学の先生のお誘いで現在住む川越に引越ししました。良秋さんは昭和四十四年に川越相愛会長に就任。その当時は雑木林、桑畑の中にポツンと一軒家。学生の切なる要望に応え薬品倉庫が食堂に代わりました。また、その傍ら里親となり、時離れて三人の子供を預かりました。

遺された彼の手帳には、「我はあわてたり世に何もお返しをしていぬ我が身を」と。また別のノートには「夢は大きく果てしなく」「東西合作病院」「「生長の家道場」「里子の園の併設」 祈りに明け、祈りに暮れる。生長の家の御教えを基本に、我が職能を活かして新設される慈愛東西診療所(今の慈愛治療院です)、そこには常時数人の里子が生活を共にし、魂の教育をして社会に送り出し、また東西合作病院は一人でも多くの人々に役立ちたいと、子供達と早朝行事、神想観と先祖供養、朝食後子供達は学校へ、自分は診療へと。他にないような病院を造りたい。夢は大きく果てしなく、夢みる夢男さんでした。

良秋さんの残した足跡に、人のお役に立ちたいその想いひとすじの人生に感銘を受け、私は引き寄せられ生涯を添い遂げて参りました。

今その夢の一つが慈愛治療院として活動してくれています。ありがとうございます。 

 

 

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