忘れ得ぬ人々 (22)使命を生き抜いた 夫、大竹秀一
大竹 祐子
学生時代に青年会活動と出会った夫は、昭和五十三年五月から五十五年九月まで埼玉教区青年会の執行委員長(当時)を務めました。
夫とはかつての教化部で開催された「中学生練成会」のお手伝いをした時が初対面でした。厳しいイメージがありましたが、子供達に掛ける言葉が優しい人だと感じた事を記憶しています。縁あって夫とは昭和五十七年に結婚致しました。
青年会から相愛会に移り、副会長の職を任せて頂いたこともありましたが、その頃は学習塾の仕事が生活の中心でした。人を育てることが自分の使命であり、み教えを生きる事であると考えていたようです。進路指導は勿論、生徒や親御さんには親身に相談に乗り、アルバイトの講師方にも可能な限り手厚く対応しました。
朝から夜遅くまで疲れを知らないように働き、人一倍読書をし、休日ものんびりと過ごすことはありませんでした。常に今を生きる人でした。自分が現世で過ごす時間を自覚していたようにも思えます。
娘に夫の思い出を尋ねると「仕事のように毎日教化部に通っていた」「練成会には塾の生徒達を誘って出かけた」「青年会で薬師寺の高田好胤元管主を川越にお招きした時、父から花束のプレセンターを任された」こと等を話してくれました。
その夫が最後に向き合ったのは「先祖供養」でした。きっかけは平成二十年に病を得たことにありました。若い頃には医師として働いていたにも拘らず、家族には病院嫌いを通していました。しかしこの時担当となったドクターの指示には不思議と素直に従い、治療の結果、余命一か月と言われた状態から二年半の時間を頂くことができました。
この間には夫婦揃って度々先祖供養祭に参加することができ、私を霊牌供養に導いてくれました。今では私の生活の指針となっております。またこれまで尋ねる機会のなかった夫の実父の墓参りをし、荒れ果てたお墓の片づけをさせていただききました。その日偶然にも実父の従兄家族と出会う不思議にも恵まれ、ご供養の有難さを家族で実感しました。更に両親の希望であった大竹のお墓を自らデザインして故郷の地に建てることが叶う等、亡くなる直前まで活動的な生活を送り、生涯現役の六十七年でした。
毎月の先祖供養の際に夫を招霊していただく度に大変感動いたします。離れていても常に見守られているという安心感と、彼方での元気な姿を実感できる一時です。 拝