忘れ得ぬ人々 (25) 在りし日の深堀裕子先生

            閑野 理子   

             
私が飯能に住む様になり、深堀裕子先生とお会いした三十五年位前は、まだ相愛会のみで男性の方が中心でした。それからまもなく白鳩会が発足し、飯能は深堀先生が中心になってまとめてくださる様になりました。
先生のお父様は、中富秀夫・陸軍航空整備学校の校長(中将)。お兄さまは日本航空のお偉方で皇室の専用機に付き添いとして搭乗しておられました。そして熱心な生長の家の信徒さんでした。
生長の家はお母様からご兄妹に受け継がれたそうです。ご主人のお父様もかの有名な、菅原道大中将、入間の陸軍兵学校の校長で資料館があります。菅原道真候の直系のご家族です。本当は菅原姓ですが、ご主人が母方の姓(深掘姓)を継がれたそうです。深堀裕子ご夫妻はお互いに、お父様~ お母様~ と語尾を上げて呼んでいらっしゃった!まるで今の上皇様ご夫妻の様なお二人でした。
月に一度、先生のお宅で聖使命感謝奉納祭、午後は輪読会を開催されていて、その時お料理上手な先生は、いろいろなお料理をいつも余るほど作ってくださいました。
先生は東京女子大出の才媛で高貴な方なのに、謙虚で、暖かく、包容力があって、誰にでも「神の子」として接してくださいました。その反面、何とも言えない底力の持ち主で、私も含めご指導を受けた大勢の方が救われたことと思います。
先生はご自宅で中学生中心に午後五時から学習塾を開いておられて、生徒の親御さんを講習会へと誘われていました。その傍ら「誌友会」「母親教室」等、講師活動もしっかり勤められていて、白鳩会では聖使命拡大対策部長、特に平成十年~十五年まで講師会長をなさっている頃、重い書物を持って、飯能から教化部へ毎日通っていらっしゃり、その頃はまさに、スーパーウーマンの様でした。そんな先生が、令和二年一月十三日に突如他界されました。一月七日に奉納祭をしてくださり、その後、ご自宅で転倒なさって、九日に入院、十三日にあっという間に他界されました。
お子様の手も煩わせず見事な最後でしたが、私はショックのあまり、しばらくの間、足が地に着いていない状態でした。お徳を沢山積んで逝かれたので、高級霊となって私達を見守っていてくださると思います。
続けることが先生に対して、何よりのご恩返しだと思います。私にとって先生は、恩師であり、母の様でもあって、まさに観世音菩薩でした。
「天国に行ってみたいな日帰りで」
どこかで目にした川柳です。先生、お会いしたいで~す。報恩感謝 合掌

故・深堀講師(左)と閑野さん

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