忘れ得ぬ人々 (30) 中沢保太郎先生の思い出① 山田 充宏
私が先生と初めてお会いしたのは熊谷に越してきた四十年くらい前なのですが、お話するようになりましたのは、相愛会誌友会に顔を出すようになってからなので、三十年くらいになります。
先生は既に講師会長などの役職を下りられ、第一線から退いていました。当時は全国大会や講習会や新年会などのイベントには、先生から多大の助成を頂き、支援していただいておりまして、そのやり取りなどのお付き合いでした。よく和紙や紙製品が並べられたお店先に伺いました。折々に大変お世話になりました。物静かで上品で、誠実でダンディーな方でした。
先生の講話をお聞きしたことがないのが残念ですが、懇談の中で先生から体験を少し聞いたことがあり、後日「生命の実相」三三巻に(肺尖カタル・胃腸病が快癒する)と言う体験談に熊谷の中沢晟治さんと言う方が載っており名前と年代が重なっていたので、「これは先生の体験ですか」と聞いたところ「いや、違う」という答えでした。
新年会では静かにニコニコして皆さんの歌やお話を聞かれていました。一度ハモニカを吹いてもらったことがありました。一番の思い出はご夫婦で新年会に来られた時、奥様も奥ゆかしい方で笑顔がチャーミングで本当に仲が好くご夫婦が調和していてお互いに尊敬しあっている姿を見て、こんな夫婦になりたいなと思ったことです。
先生の生長の家との経歴を「熊谷誌友三十年のあゆみ」からかいつまんで紹介させていただきます。
先生は弟さんが肺結核であと三か月の命と断定されたとき一緒に診断を受け、肺門リンパ腺カタル(肺結核の初期)と言い渡されて不安になって居る時、親戚のおばさんから『生命の実相』を渡され、それを一心に読み次第に心が変わり、さらに神想観を実修することで恐怖が取れ全快しました。大変喜んで赤坂の本部に行き、熊谷の誌友を調べてハガキを出したところ七名が集まりました。皆で話し合った結果、誌友会を開くことが決まり本部へ申請すると昭和十一年十月七日付をもって、生長の家熊谷本町誌友会の承認証を頂きました。
誌友会は昭和十四年頃まで続きましたが、戦争のためメンバーが減っていきやむなく解散することになりました。