忘れ得ぬ人々 (51)  和子さんとの歩み② S・K

(前回のあらすじ。和子さんとの出会い、生長の家との出会いに触れ、福島から埼玉に戻ってきました)
 和子さんは初めての埼玉県教化部は緊張したそうです。講師研修会の時に、「あなたが福島から来た方なの」と最初に声をかけて下さったのが松尾寿満子さんで、「ここが空いているから掛けなさい」と一番前の隣に座わって一安心したようです。のちにこの時の状況は何回も何回も聞きました。
 埼玉県教化部へ出かける時は車での送り迎へでいつも私の出番です。待っている時間、私は近場でぶらぶらしながら、その頃始めた俳句づくりに没頭していました。
 相愛会の活動を始めてほしいなど一言もありませんでしたが、生長の家を一緒に学べたらいいのになあ~との心は感じました。それで和子さんが喜ぶ学びの場に参加しました。
 それからは諸行事すべて夫婦で積極的に参加しました。総本山の団体参拝練成会・宇治別格本山の八月盂蘭盆供養大祭・飛田給の練成会、そして講習会や講演会への参加など。
 また月一回の会員宅の訪問も楽しみの一つでした。相愛会・白鳩会の会員宅、生命学園の児童宅など二十数軒廻りました。桶川相愛会誌友会の準備やお茶出し等、満面の笑みをたたえて協力してくれる姿は忘れられません。
 またとにかく勉強好きでした。聖典・聖経はたえず読んでいました。そしてノート等に清書しておりました。印刷したかのような綺麗で読み易く心洗われる文字でした。日めくりカレンダーを一筆箋やノートに数多く書き留めておりました。その時間が随分と楽しかったようです。その他にも普及誌の目にとまった記事を毎月コピーしてジャンルごとにファイルしておりました。悠々味読・うるわしき日本の神様・俳壇・歌壇・PBS活動報告記事・その他目にとまった特集記事等、コピーの為にコンビニへ足を運んでおりました。
 数年前に転倒して大腿骨を骨折しました。その後は生活に若干の支障をきたし、通院中にガンの症状が発覚。令和四年の年初めに入院し、その後自宅療養になりました。
(つづく 次回、掛け替えのない時間を共に!そして今も共に)

ひとりでは もったいなくて 妻を呼ぶ
 あ!!いないんだっけ 夕焼の空

今生の 別れの言葉 「有難う」
      六十年の 縁終わりぬ

教化部実相額前で

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