忘れ得ぬ人々 (54) 多湖周子先生の思い出① Y・K
平成15年1月に私の母がくも膜下出血で、倒れた時、東京から秋田に帰省。手術をして何日かの意識がない時期に、友人で生長の家本部職員の楠本忠正さんの紹介で、平成14年から秋田県教化部長に就任された多湖周子先生とお会いした。楠本さんも秋田に来てくれて3人で食事をした。多湖先生は私の話を何時間もかけて聞いてくれた、そのパワフルな言葉が印象的だった。
多湖先生が教化部長に就任された頃、教区には青年会は存在しない状態でしたが、白鳩会にも協力を依頼し、幹部の娘さん、高島尚子青年会委員長と毎日のように家庭訪問をしつつ、誌友会を開催。青年が集まっていた。私が多湖先生のマンションで開かれた誌友会に参加すると、十数名の青年が集っていた。講師は地方講師が勤め、先生は料理に専念。会が終わると美味しい料理が出て、皆で舌鼓を打ちつつ話をした。先生は、総裁先生の素晴らしさ、亡くなられたご主人・多湖勉本部講師の思い出など話されていた。
その頃の教化部会館は昭和43年頃に住宅街に建てられた築40年位の建物で、寒くて古い建物だった。練成の時は3階の大道場では雨漏りがした。
多湖先生は就任直後、教化部を建て直す決意をされたが、幹部は「貧乏な県だから」と皆反対。その中で一人一人を説得し、会館建設が決議された。献資を呼び掛けると、協力してくれる信徒が増え、新教化部会館建築の機運が盛り上がっていた。
わが家では母は平成15年7月に後遺症は残るものの退院。私は不動産の会社に勤めた。
平成16年に秋田市千秋北の丸(秋田藩佐竹氏の居城、久保田城跡)の一部の土地が売りに出している情報があり、多湖先生にお持ちした。先生の目がキラリと光り、すぐ現地を見に行った。以前、秋田市内の土地を見て回り「こんなところに教化部が建ったらいいな」と思われた正にその場所だったとのこと。幹事会での承認を得て、その後土地を取得。平成21年に秋田駅から徒歩18分、605坪の敷地に2階建て248坪の秋田県新教化部が完成したのは、多湖先生の思いの力と行動力が大である。
私は平成17年1月に秋田県教化部職員に奉職。多湖先生は17年5月に本部の生教会の担当となり、平成23年に埼玉県教化部の教化部長に赴任された。 (以下次号)