忘れ得ぬ人々 (55)  多湖周子先生の思い出② Y・K

 わが家では、平成19年の1月に母が、12月に父が昇天し、私は一人暮らしになった。「結婚したいなあ」という気持ちも湧き、結婚相談所にも一年間通ったが、成果が出ず、「一生独身なのかなあ」とも思った。
 平成24年に、多湖先生からお見合いの話をいただいた。先生が秋田を離れて6年も経っていたので驚いた。その年の10月に埼玉教区青年会の方々が秋田県教化部に宿泊され、その中に妻になる日根恵美子さんがいた。12月末にお見合いをして、話がトントン拍子に進み、25年3月28日に大宮氷川神社で挙式、31日には埼玉県教化部で披露宴まで行っていただき、私は埼玉の住人になった。
 多湖先生は、ご主人の多湖勉本部講師の「将来幹部になる青年を百人育てる」という思いを継いでおいでだった。多湖勉講師は、本部青年局、沖縄教区教化部長、和歌山教区教化部長を勤められたものの、昭和61年、58歳の若さで昇天された。周子先生は、30代半ばで、お嬢さんの照子さんと二人で人生を切り開いていかれたこととなる。
 先生は、勉講師の思いを受け継ぎ、青年の育成には全身全霊を捧げられた。青年の悩みには徹底的に寄り添い、時には厳しく指導され、多くの青年が育って国際平和信仰運動の中核となる。自宅での誌友会は、和歌山時代から定年を迎える月まで毎月開催。特に、総裁先生に中心帰一する大切さを伝えられた。
 発想が豊かで、決意し、行動し、実行された。埼玉教区での3年7か月の期間で、青年会は伸び、生命学園は3会場から16会場に増えた。SNI自転車部の萌芽、Facebookの活用、スカイプによる壮年誌友会も開催された
 先生は26年11月に埼玉教区教化部長を離任され、その後、飛田給本部練成道場へ。定年を迎え、和歌山に居を構えられた。体は丈夫と言えない面もあり、お疲れだったかもしれない。令和元年、11月26日にご自宅にて昇天。ご葬儀には多くの方が集まり、よく行かれた東浦和の飲食店より合同の献花もあった。
 多湖家のお墓は新宿区の香蓮寺にあります。先生ありがとうございました。これからも天界より人類光明化運動・国際平和信仰運動に励む私たちを見守ってください。 〈完〉

青年の育成に全力を傾けられた多湖周子先生
(青年女性が多く集まった着物ショーにて)

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