202503月号 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山

『新版叡智の断片』には、
「万物すべて冬枯れて一望ただ雪の下に覆わるる時も、すでに雪の下には逞しい萌芽がめぐんでいるものである。滅びたように見えているときに、滅びない生々の陽気を観取し、凍結した中に鬱勃の気を見出すものは実相を見るものである。(以下略)」と書かれています。
私たちの日常においても全然光が見えなくて、如何にしてよいか分からなくなる時があります。その時にも物事の奥に実相の萌芽が用意されています。「すべて神様の世界に悪いものはない」と信じてどんな現象の中にも実相の萌芽を見れるものは一切の不安が拭い去られます。寒い北風の中に必ず春の芽吹きが用意されています。通勤の時、大宮を通りますが、2月の一番寒いときでも一番桜が早く咲く大宮駅の桜の木もまさに咲かんとしている気配が感じられます。「信じて待つ」ということが教育だけではなく何事にも大切です。この信念がコトバの響きとなって宇宙に波及します。
『古事記』では「天地初発の時、高天原になりませる神のみ名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神此の三柱の神は並ぶも独り神成りまして隠り身なり」と書かれていて現象に姿形を現さない「隠り身」なる神として全ての御中に存在しています。
幕末、幕臣の山岡鉄舟は後に勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城を成し遂げた前段階で徳川慶喜の命を受けて単身西郷隆盛に面会して交渉し、江戸城無血開城を取り付けた人物ですが、この山岡鉄舟は維新後に宮内省に勤めていて、1と6のつく日が休みなので、その前日に晩飯を済ますと握り飯を腰に着けて草鞋がけで三島の龍澤寺に参禅しに行った。
100キロ以上の道のりを雨の日も風の日も箱根を超えて3年間通い続けた。3年目に龍澤寺の星定和尚が山岡鉄舟に「よし」と允可を与えた。山岡自身は、悟ったとも何とも考えなかったが、龍澤寺を辞して箱根に差しかかると、山の端から富士が見えた。これを見たとき大悟した。この日大悟することが、星定和尚には解っていたのであった。
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
谷口雅春先生は『生命の凝視』(昭和18年刊)にこのことを取り上げて『此の句は勝海舟の句のように聞いていたが、山岡鉄舟が富士を見て悟った時の心境を鉄舟が和歌にしたもので、それには『晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿はかわらざりけり』と下の句がついているのが本当だそうである。下の句は寧ろ蛇足だと思われるが、これは涅槃経の『月の性もと没性なし』という譬喩と好一対だと思う。』とお示しくださっています。