忘れ得ぬ人々 (10)内田倫子先生
私が内田倫子先生とお会いしたのは長男が小学校へ入学するため、行田市から熊谷市三尻に引越して来たのがきっかけでした。引越するにあたり、母は近くに「生長の家の方がおられますように」と真剣に祈ってくれていたそうです。「切なる願いは聞かれる」と言われる通り自宅から自転車で五~六分の所に内田先生が住んでおられました。色白で美人でスラッと背が高く素敵な先生というのが第一印象でした。
先生は、昭和四十三年熊谷相愛会の三尻班長(当時)、昭和四十九年十月白鳩会の組織化に伴って、熊谷白鳩会の三尻支部長として誌友のお世話をされていました。私が出会った頃は、ご自宅を開放され「聖使命感謝奉納祭」「誌友会」「母親教室」出講講師の送迎を自ら黙々とこなしておられました。ご主人の晴三先生のご協力も多分にあったと思います。私は未だ会社勤めをしておりましたが「名前だけでも良いから支部長に」という訳で引き受けました。周りの方々が協力してくださり助けられました。
教化部の行事や出講にそして時間を見つけては戸別訪問をし、生長の家の普及活動にと情熱を傾けられていました。誌友会に出講された先生は参加者の悩みや質問に真摯に答えられ、絶対に口外しない先生を信頼して多くの方々が指導を受けられました。県内各地への出講の時は熊谷駅から目的地までの経路をいつも晴三先生が調べてくださると聞いていました。また組織をとても大切にされ「神様事は第一です」「第一のものは第一に」、と常々言われ「ハイ」の精神を教えてくださいました。
晴三先生は、お若いころは和歌山青年会で活躍され、定年退職した後は人生をみ教えの布教に捧げ、昭和六十一年三月から平成元年九月まで相愛会教区連合会長として活躍。倫子先生は教区副会長・総連会長としてご夫婦揃って活躍されました。振り返ってみれば生長の家第一の純粋な先生に出会い、組織というもののレールを引いてくださったお陰で今の私達があるのと有難く思っています。自分に厳しく、他には峻厳なる愛を貫いた先生でした。
足の上にテープカッターを落とされ指の骨折で歩けなくなり施設に入られ何人かで訪問した際『生命の實相』四〇巻がきれいに並べられているのを見てやはり内田先生は生長の家一筋の人生を歩まれて来た方なのだと思いました。
毎月、普及誌を届けに通いました。時々桑野昭子先生(故人)と喜多和子先生とご一緒すると現役時代の話で盛り上がってとても楽しそうでした。先生にお会いするとニコニコと笑顔で迎えてくださり、あの厳しい表情は無く、「優しいお母さん」になっておいででした。
内田倫子先生、長い間のご指導本当にありがとうございました。