忘れ得ぬ人々 (15)二人の義母
藤原聰子
藤原良一氏の夫人のしげ子義母は毎月三十冊の神誌を誌友宅に届けていました。三十二年に白鳩会を発足させて自宅でも誌友会を開催するようになりました。義母は四十年に他界するまで光明化運動に捧げ尽くしましたが、 昭和四十年九月十四日早朝、義母は急に頭痛がして主人が自転車でお医者さんを迎えに行きましたが、午前七時四十五分に亡くなりました。
その数日前の九月一日には谷口清超先生講習会の昼食の〝幕の内弁当〟を手作りされました。当時青年会員の私はそのお弁当を給仕させていただきました。午後の行事が始まり周りが静かになった控室で義母と二人きりになった時、先生がきれいに召し上がられた器を見てとても嬉しそうに喜ばれて、私にお料理の中のさわらの照り焼きのことなどを話してくれたことを覚えています。その時はまさか二週間後に急逝されるとは思いもよらぬことでした。
素晴らしい女性だなあ、私もこの様な女性になりたいと思いました。
その六年後、私はしげ子さんの三男の誠さんと結婚し不思議なご縁を感じます。
私達の結婚二年後、義父・藤原良一講師は本部講師 森安子先生と再婚されました。
安子義母は、お山様(谷口家)で私が女中として在籍中、ご門の外のインターホンより「今日は学生のデモが通りますので、もし何かあったらと思い、ご門の外で見張らさせていただきます」と言われましたので、ご門のところへ行ってみましたら、着物にもんぺ、カッポー着姿で、頭には手ぬぐいで姉さんかぶりの先生が立っていらっしゃいました。その後、何事もなくデモも通り過ぎ、お帰りになりました。安子義母がいかにお山様ご一家を大切に思っていられたかを知ることができました。
安子義母は義父の亡き後八年後、本部講師のまま六十七歳で原宿の自宅で急逝されました。昭和六十二年十月一日の『聖使命新聞』によりますと、 『昭和十五年、父君が本部講師を拝命されたのを機にご両親とともに上京、十九年に本部員に。三十四年に本部講師に任ぜられ活躍されました。
葬儀の時には総裁・谷口清超先生は
たらちねの 愛と祈りを人々に
分かちあたえて 逝きし 君はもと
いう歌を手向けられ、告別式には、谷口恵美子先生がご臨席、夜には谷口雅宣・副理事長(当時)をはじめ、人々が多数駆けつけ別れを惜しんでいた』と記載があります。