忘れ得ぬ人々 (18) 母、中村雪子のこと
佐竹 房子
母、中村雪子が、生長の家に入信いたしましたのは、昭和二十三年頃でした。
その当時、私達一家は下関市にある母の実家に住んでいました。母は父の戦死の知らせを受け、働き始めておりましたが、胸膜炎を患い困っておりました。知人に誘われ、生長の家のお話をお聞きしましたら、ほどなくして全快いたしまして、驚きと喜びで、感謝感謝の生活になり、うれしくて、あらゆる知人に生長の家をお伝えしておりました。
私達子供三人にも「お父さんは、やさしくて立派な良いお父さん」と、亡き父の良いところばかりを話してくれましたので、私達は、仲良く元気に育ちました。
母は、胸膜炎が完治し、幼稚園の先生として良い仕事に就くことができ、さらに一所懸命勉強して、園長先生になることができました。女学校時代、テニスの選手として活躍していた母はとても勝気で努力家でした。園長として、生長の家の子育てのお話を父兄の前で話し、PTAの会長さんからも信頼され、喜ばれていたように思います。そんな母の生活は、日頃は園長、休みの日は、家の裏の畑を耕しておりました。
幼稚園を定年退職した後は、兄家族のいる札幌に行き、生長の家の活動に励んでいた様です。数年後、兄が札幌から長岡に転勤になりましたので、母は埼玉の上尾の私宅に来ることになりました。
昭和五九年四月、講師会の副会長のお役をいただき教化部で行事のある日は、参加者の皆様を満面の笑みで迎えていたと聞いています。皆さまのお世話に充実した日々を過ごしていました。
講師会の祭祀部に入り、作法の研修にも励み、毎年の団体参拝練成会には必ず参加し、総本山の先生から〝浦安の舞〟も教えていただき、嬉々としておりました。「〝砂糖と塩〟の使い分けがうまく、とても面倒見のよい先生でした」と地元の方から聞きます。
聖歌隊に入り、いろいろな方を、お誘いして、私も一緒に楽しませていただきました。母の写真帳を開きますと、埼玉教区での、いろいろの行事、団体参拝練成会、旅行等の先々で、多くの方との出会いがあり、いろいろな方と肩を寄せ合って笑い合い、楽しげにしている姿に接し、幸せな日々を過ごさせていただいたこととに感謝で一杯です。
「若くして夫を亡くし、女手一つで子供達を育てあげるのは大変だったのでは」との私の問いに、「あなた達がいたから、生長の家の教えがあったから幸せだったのよ」と朗らかに答える母でした。
平成二七年十月、九十八歳で天寿を全ういたしました。
ありがとうございました。