忘れ得ぬ人々 (35) 山本功講師の思い出 石塚恵造
川口市朝日一丁目、薬林寺の真向かいに山本家がありました。私たち家族はその隣に住んでいました。そして山本家は昭和三十五年頃、上青木に移り住み「山泰鋳工所」を創設しました。当時のお宅は小さな家が二軒。その一軒で功先生の生活が始まり、三十五年一月十五日から三十七年一月まで生長の家埼玉教区青年会委員長就任。三十五年五月には「生長の家埼玉教区高校生連盟」が発足するなど次々と新たな運動を展開。当時、生高連だった金子英二さん(鳩ヶ谷相愛会員)は新婚の山本先生宅に伺い、毎週早朝神想観をされていたそうです。
さらに児玉の金鑚神社にて毎年一泊見真会を行い、数十名が集まり、幹部、会員の意識の高揚がはかられました。三十六年度末にはみごとに青年会の目標を突破し、五月の全国大会で『理想世界』誌拡大、全国第二位で晴れの受賞となりました。(「生長の家埼玉教区のあゆみ『聖風』より)
昭和四十八年、功先生は「山泰鋳工所」の二代目社長に就任されました。その頃は休みの日に行くと真っ黒になって仕事をされていました。
昭和四十九年一月には、埼玉教区栄える会支部を発足し、会頭に就任されました(平成元年九月まで)。それからも山泰鋳工所は、破竹の勢いで生長を続けて、昭和五十八年には一階に事務所。二階に住居の、三階建ての本社ビルが完成。二階の居室の中心に大聖典が据えられて、早朝神想観が続けられていました。小峰洋太郎先生、鶴田先生ご夫妻は毎日通ってくださるので「先生には玄関の鍵を一つあずけてあるのよ」と生前奥様・勝江さんが笑顔で話してくださいました。
昭和六十年には、水上温泉、水上旅館にて一泊二日の生長の家栄える会関東ブロック大会が開催されました。私は功先生に声をかけていただき、両親と家族七人で参加しました。初めての栄える会の行事について行くのが精一杯で、あっという間の二日間でしたが、「与えよさらば与えられん」「繁栄の黄金律」ということを学び、現在も工務店の経営に大いに活かさせていただいております。
先生は平成元年教区相愛会連合会長就任(平成七年まで)。ご活躍されましたが、東日本大震災の少し前にお部屋でお倒れになりました。聖経『甘露の法雨』を胸に抱いていたそうです。闘病生活とリハビリ、多くの方からのご愛念、特に奥様の深い祈りと手厚い介護があり、杖をついて歩けるまでに回復。油絵を始められ、平成二十九年、三十年の市展にて入選。これからという時、令和三年七月二十六日帰らぬ人となりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
合掌。