忘れ得ぬ人々 (50) 和子さんとの歩み① S・K
私共夫婦は以前、実践倫理宏正会、いわゆる朝起会で夫婦愛和・社会調和を熱心に学んでおりました。そんな時期に私は会社の異動で本社より福島へ転勤になりました。最初の2年間は単身赴任、その間手紙のやりとりを私は毎日、和子さんからは3日に一度という回数でした。
出会いを書かせていただきます。私が戸田の工場に勤務していた時に、和子さんが入社してきました。この出会いが神様の導きというほか考えられません。私は最初銀行に就職しましたが2年で私のわがままで退職し、いろいろ仕事を探してようやく戸田の工場に入社しました。
和子さんはその後の入社で会社の人事の面接時に、本社(日本橋)と戸田の工場のどちらに行きたいかと聞かれたそうです。即座に戸田と答えたそうです。会社の方は「めずらしいですね、普通若い人は華やかな日本橋の方へと希望するのですが」と言われたそうです。「はい、私は通勤時、空いている戸田の方が良いのです」とこんないきさつがありまして、もう神様のすじ書きのレールに乗っていたようです。
和子さんが2年後、福島に転居した時期に戻ります。夫婦で朝起会場(郡山・開成山大神宮・参集殿)へ通っていたある日、生長の家福島県教化部の信徒さんが朝起会場に見えました。いろいろと話をした中で和子さんは生長の家の素晴しさを感じたそうです。
それは朝起会では現状を感謝し地域と愛和して生活してゆく現象世界の教えであるが、生長の家は唯神実相の世界で唯、神のみが実在の教えで悪はないとの奥の深さの魅力を受けたとの事、すぐに福島県教化部に足を運び聖使命会員となり、ただちに活動に励みました。
私は活動はしませんでしたが、応援は喜んで協力しました。教化部での諸行事には送り迎えのお役、講習会や講演会等には必ず参加をしておりました。講習会場となった郡山・白河・須賀川・矢吹・福島・磐梯熱海・土湯温泉等記憶に残っております。
そんな福島での活動の中、私共は埼玉に戻りました。 つづく
(次回、いよいよ埼玉へ!そして共に歩んだ求道の日々)
我れひとり ほんの小さな 宴です
今日は妻との 結婚記念日
亡き妻の 好みし皿に 焼鯖を
二切れ盛りて ひとりの夕鍋