忘れ得ぬ人々 (6) 父・関口寿郎の思い出

山田 愛子

 今回初めて信仰者としての父の姿を客観的に観る機会を頂きありがたく思います。父は晩年〝自分史〟を書いており、それによると父が生長の家を知ったのは、満州に渡り義兄の家で『生命の実相』を読んだことがきっかけでした。幾度も生死の危機から護られながら、戦後の混乱の中を家族と共に引き上げて、北海道の歌志内という炭鉱町に移り住むことになりました。「生長の家講演会」の案内を見て参加し、誌友会に参加するうちに「この世界は与え合い生かし合いの世界である」ことを知り、生活全般が一新したと書いてありました。幼い私の記憶では我が家の誌友会に参加した皆さんが笑顔で穏やかで「生長の家の人はみんな良い人だ」という印象が強く残っています。また父は昔から沢山の詩を書き、食後に家族みんなに読んで聞かせてくれました。詩に書かれた意味は分からなくても言葉のリズムに乗せた思いは伝わってきました。私が小学校四年生の時に炭鉱が閉山となり埼玉へ転居してきました。埼玉では講師会の副会長として長堀耕衛講師と共に活動していました。昭和六二年に教区の歴史をまとめた『聖風』が出版されましたが、父はその編集者の一人でした。提供された資料の分析や、出来事を系統立てて復元するという、気の遠くなるような作業をこなし、父の書いた原文を叩き台として出来上がったと書いてありました。晩年三冊の本を出版しましたが『私の学習ノート』を作成するために、部屋に山のように積まれた『生長の家』誌をバラバラにして項目ごとにまとめ、七二才で習い始めたばかりのワープロを使って一冊の本に仕上げました。喜多和子先生が「お父さんは字引のように何でも直ぐ答えてくれた。」と言ってくださったのも納得できました。九三才で亡くなる前のことです、自身の本を読み返し「良くやったな~」としみじみ言っていました。

 波乱万丈の人生を懸命に生き抜いた父・関口寿郎を紹介させていただきました。

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