忘れ得ぬ人々 (26) 義母・佐藤ハルの思い出      佐藤 清子 

 私と佐藤ハル講師との出会いは、ハルの長男で私の夫となる一裕さんとの結婚でした。

三十四年前に結婚。その五年後、病気で入院した私を実の親子だと他から思われる程、行き届いたお世話をしてくださいました。そして結婚後、流産児がいた私を母は教化部での流産児供養祭に誘い、家でも仏壇を置いて供養する様にアドバイスしてくれました。

実は、主人から両親、妹は、生長の家を信仰している事は、聞いていました。母に「どうして生長の家を信仰する様になったのですか?」と尋ねると、朝のラジオ「幸福への出発」を 聴いて、「この宗教は間違いないと思い、入信した」と話してくれました。私達夫婦は、いろいろ両親にお世話になっていることもあり、夫婦揃って、聖使命会員、組織会員になりました。

退院してから二年後に両親が、二世帯住宅を建てるという事で同居することになり、母がどれだけ熱心に信仰していたのかよく分かりました。朝五時に起きて『甘露の法雨』を読誦し、練成会の開催前には、食事のメニューを考え、材料を調達。練成会には、泊まり込みで炊事をしている事、終わったら、割烹着を全部持ち帰って洗濯していました。そして、両親揃って朝早く出掛けて行く日がありました。何やってるのか尋ねると、教化部の周りの草むしりをしているとの事。

母は、練成会の炊事担当に生き甲斐をもってやっていましたので、中には、厳しい人と思われていたようですが、本人は一所懸命やっていただけだと思います。また、意外な事に聖歌隊にも入っていて、教区大会でステージに上がり歌を披露していました。そういえば、母の招神歌は、とてもきれいな声でした。平成十六年位に炊事担当から卒業しましたが、それでも何かのお役に立ちたいと練成会の終わった後、割烹着を洗濯していました。下座の行を大切にする人でした。

しばらくして、突然、主人の妹が、癌になり四十七才という若さで亡くなってしまいました。その間も、母は気丈にふるまっていましたが、娘の死から四か月後に体調をくずし、毎週三回透析をするようになり、体も痩せてしまいましたが、それでも、講習会に参加したりしていました。闘病生活八年目には、母より先に父が亡くなり、その翌年に母が亡くなりました。私達夫婦は、介護の人達に手伝ってもらいながら、父母の面倒を自宅で看ました。少しは親孝行できたのでは…。母は、本当に厳しい人でもあり、心優しい人でした。今考えると、私の実父母より長い時間を、両親と過ごしていました。私を本当の娘のように可愛がり信仰に導いてくれた両親に感謝です。

     ありがとうございます。

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