忘れ得ぬ人々 (31) 中沢保太郎先生の思い出②  山田 充宏

 

 昭和二十年に戦争が一段と激しくなってきて、先生は市内の軍需工場に勤務するようになり、慣れない家族にお店を任せていましたが、どうにもならず閉店することになりました。その後六月末に工場で肺結核の集団検査があり、「君は胸が悪いから労働できないので休養するように」と言われ、十年前に肺門リンパ腺カタルが全快したことを思い出し、「そうだ。私は神の子だ。神の子には病気はないんだ。私は健康なんだ。幸福なんだ」と心に深く何回も何回も自分に言いきかせて、元気を出しました。
 そして休養することになったのを幸いに荷物を疎開させることを思い立ち、片付けはじめしばらくして全て荷物を疎開することができました。すると八月十四日深夜、熊谷市はB29の爆撃を受け市街七割が焼失。先生のところも土蔵を残して店もお宅も貸家なども焼失してしまいましたが、焼け跡に立った先生は、長い間にたまった〝店の悪い業〟がすっかり消えてきれいになったような思いが湧き「これでよかったのだ。これからやり直そう! 」と心に鞭打って立ち上がる決意をしました。翌年には間口二間半、奥行二間のバラックの店を造り商売を始めました。
 昭和二十二年三月には栗原千佳さん、岩田光世(岩田照子さんの義母)さんと三人で力を合わせて誌友会を開けるようになりました。毎月本部の先生に来ていただいてご講話を拝聴し、商売しながら愛行をさせていただいているうちに、家庭は調和し、商売は繁盛して、店や倉庫や社屋や住居を建てることもできました。
『聖風』(埼玉県の生長の家のあゆみを編纂したもの)によると、誌友会の日程は近隣の市毎に順番にきめられ、熊谷では毎月十八日開催となったそうです。この日程で何十年も続けられ、男性女性仲良く運営し、多くの講師を生み出し、参加者も次第に増加しました。現在はコロナのため中断しておりますが第二日曜日の家族誌友会として継続されています。
 また先生は高城神社の有力な氏子だったため社務所を借りることができ、早朝神想観を五時十分からご夫婦で毎日開催し、近所の人が十名くらい集まっていたそうです。お店の従業員にも「時間があるときには読みなさい」と言って生長の家の本を勧めていたそうです。その中の一人が元熊谷相愛会長の栗原伸行さんで、中沢先生のお店で働いて熊谷高校の夜間に通わせてもらい、その後三菱電線に就職されたそうです。先生のお力で本町では多くの方が聖使命会員となりました。
 そんな先生は、平成二十一年四月に九十八才で天寿を全うされました。現在も息子さんや本町の方が聖使命会員を続けておられます。
御教えにより救われた喜びを広めたいと初代熊谷相愛会長に就任され、また埼玉の生長の家の発展を願って昭和三十九年から十年間三代目埼玉教区講師会長として活躍された先生のその思いを受け継いで、私も御教えを生活に反映し、多くの方にお伝えしたいと思います。

平成11年の熊谷誌友会で(前列左から5番目が中沢講師)

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