忘れ得ぬ人々 (36) 加藤裕子さんのこと 古都百子

 九年前の春、上福岡地区の佐野テル子さんから加藤裕子さん訃報の連絡を受けました。
 一瞬何事かと理解できず、その後絶句してしまいました。話によるとお彼岸に三女さん親子とご主人の眠るお墓にお参りに行き、その墓地の前に広がる土手には菜の花が咲き誇っていたそうです。この花も一緒に手向けたいと摘んでいたけれど「おばあちゃんがお花の中に倒れて起きてこない」というお孫さんの声ですぐ病院に搬送されたそうです。搬送先の病院は次女の勤め先で色々手を尽くし処置をしてくれたけれど手の施しようがない状態で平成二十六年四月四日帰らぬ人となりました。ご主人も講師を拝命していて温厚で物静かな人との印象とお目にかかるといつもニコニコと笑顔で接してくださる方でした。
 加藤さんとは新河岸が上福岡地区から分けつし、地区として独立した後からの知り合いでしたが、その頃白鳩会から声をかけていただいて宇治別格本山に行かせていただき、常に二人で行動を共にして楽しい思い出となりました。
その後、暫くの間、私が教化部へ奉職したり姑の介護があったりで特別なお付き合いはなかったのですが、私が総連会長のお役を拝命し二年ほど経った時、上福岡の前地区連長が仕事が忙しいとの事で途中から加藤さんにお役を代わっていただくことになりました。加藤さんも当時の永井昭江白鳩会連合会長と私の願いを快く引き受けてくださり、そこから一緒に…というよりお世話になったことが多かった気がいたします。
 信仰に対して常に前向きで「神想観は一つだけでなく色々変えてやっているのよ」と伺って私も週替わりで行じるようになりましたし、私的な面でも膝が痛いと言うと漢方薬を紹介してくれたり、絵が苦手というと支部の絵手紙誌友会に誘ってくださいました。
 丁度その頃、多湖周子教化部長が「総連毎に先祖供養を執り行いましょう」との方針を出されたのですが、先祖供養となれば会場も限定されるしと悩んでいた時 駅に近くて周りを気にすることなく開催できる場所を探してくれました。会場の申し込み日は二ヶ月前とのことでしたが、その日は一月の正月気分の抜けない寒い日で、早朝に自転車で上福岡まで行くとすでに加藤さんが到着していて予約することができて安心しました。
 常に寄り添い助けてくださった加藤さんに心からの感謝とご冥福をお祈りいたします。合掌

ありし日の加藤講師

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