反対のものの見方の探究1  教化部長  木場 一廣

 私達が日常生活を送るとき、自分の考えとは正反対なことが起こるときが時々あります。
 そんな時、何故あの人はあんなことを言うのかとか、あんな行動に出るのかなと相手を非難したり、文句を言いたくなります。環境が急に変わることもあり、何故こんなことになったんだろうと悩み、私は不幸だ。私は心境が低いからだと自分を責めてしまいます。
 「神様の世界に悪いものなし」「神様のなさること間違いは無し」と書かれていても「それは実相世界のことで、今の私とは関係ない」と実相というものを自分とは離れた遠くにある存在と考えてしまいます。神想観をしたり、聖経を読んでもよくならない。私みたいな心境の低い、業の深いものには、なかなか出てこない特別のもの、と考えて信仰から遠ざかる人がいるかもしれませんね。此を解決する方法は自分の見方を変えていくことです。人生観を変えていくことです。神様の世界は「遠くにある」のではなく、どんな心境の人にも、私達の中にすでに在るのです。どんな極悪と見える人にも神の子はあるのです。それは充分分かっている。と頭では考えるのですが信念として出てきません。
 『新版 叡智の断片』P二八三に『「悪魔は主の御使いである」と聖フランシスは言う。悪魔と見えるものも、本当は神のあらわれである。世の中に悪は存在しないのである。』という御文章があります。ですから、神様の世界から外れたものはありませんから「すべてよし」なのです。勝手に現象だけ見て、現象に引っ掛かって困っているだけです。次の御文章が理解できますか。同書のP一七〇から一七一です。
 『誠なき者は人間に非ず、誠が人間也。誠なき者には鉄槌を下すべし。陰来り、陽来り、雨降り、太陽輝く。微笑のみに非ず、三十棒又六十棒、よく実相をあらわす大慈悲たることあり。形を見るべからず。天下ただ大慈悲に満ちたるなり。原子爆弾亦大慈悲なり』このことが本当に分からなければ、本物が見えてこないのです。悪は本当にないと日常生活の中で実感できなければ本当の神様を信じたことになりません。
 古事記ではイザナギノ神様とイザナミノ神様がこの宇宙を創造なさりました。しかし、イザナミノ神様は火之迦具土神を生んだので亡くなられて「黄泉の国」に逝かれた。妻恋しさにイザナギノ神は使命を忘れて「黄泉の国」に行かれ、一つ火灯してイザナミの姿をありありと見たら見にくい姿に逃げかえって、みそぎ祓いをしました。その時、最後に左の目を洗ったときお生まれになったのが天照大御神(宇宙の大神)です。左は日足りです。日の極限、実相から観ていく生き方です。実相から見たらすべてよしの世界です。2023年9月号

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