忘れ得ぬ人々 (40) 埼玉に戻って来たきっかけ 冨田敏夫
埼玉へ戻った当初、『お母さん(義母=以下、母)に大変お世話になって』と、白鳩会の幾人かの方に声を掛けられました。正直母と同居した経験はなく、日頃の母の活動ぶりはよく知りませんでしたが、記憶に残っている出来事は幾つかありました。
昭和五十四年十一月、次男の出産を控え千葉市都賀の産院の待合室に母と二人で居ました。看護師から『逆子で臍の緒が首に絡まっており、帝王切開手術の必要がある』との説明で、手術同意書へ署名を終えた途端、母は言いました。「敏夫さん聖経持っている?」の問いに私が「はい」と返事をすると、『聖経読誦しましょう』と言ってそのまま廊下に正座された。私も母と〝ハの字〟に座って、甘露の法雨を一緒に唱え始めた。「人間」の項へ入って間もなく看護師が飛んで来て、『逆子が戻りました!手術の必要はありません』との声。なぜか二人とも「当然!」という感じで、にっこり見つめ合い立ち上がった記憶があります。当時は信仰者としては当たり前の出来事位にしか思っていませんでした。
千葉に居た頃、母とは電話で真理の話をたまにすることがあり、電話口の向こうで『敏夫さんと話をしていると、誌友会をやっているようで楽しい』と言っていただいた事が記憶に残っています。娘婿としては本当に嬉しい最高の褒め言葉でした。
そんな母も晩年埼玉医大関連施設に入っていた時、当時私達夫婦は広島に居た関係から妻は年二回一週間ほど施設に泊り込みでお世話をしていました。その母が今日は広島へ戻る日になると、妻に「もう来なくてよい」と言った。理由を聴くと「来てくれるのは嬉しいが、帰る時は寂しい。寂しい思いをしたく無いから、もう来なくてよい」と泣かれた。
当時二人とも広島に骨を埋める覚悟で新築の家を買って七年でしたが、この母の言葉はショックでした。妻は一人娘でもあり、どちらからともなく「埼玉に戻ろうか!」ということになり、平成二二年七月に埼玉に帰って来ました。それから丁度三年後の平成二五年七月二八日享年九十六歳で天寿を全うして霊界へ旅立ちました。戒名「栄岸院菊與安楽正順大姉」、夫である督太郎(義父)が亡くなってから七十歳で地方講師の資格を取り、これ迄寄居の菓子屋「岸屋」のお店と、夫の意志を継いで生長の家の光明化運動に一所懸命励まれた母。最後には私達夫婦に三年間の親孝行の機会を与えていただき、有難くも誇らしい母布施菊江の生き様でした。