忘れ得ぬ人々 (43)  母 長谷川すみ枝  M・Y

 父の仕事の関係で長崎にいた頃、母は3年ほど寝たきりでした。私が小学1年の頃と記憶していますが、父は生長の家の講師に、母のところにきていただくようお願いしたそうです。
 それから母は「病気はない」と立ち上がり、私達を神の子として温かく、楽しく、笑って育ててくれました。父の転勤で三度ほど住むところは変わりましたが、母はどこに行っても生長の家に一所懸命で、生長の家の教えの通り人の幸せを祈り、人のいいところを見て生きていくことを身をもって教えてくれました。なので私は苦手な人とか、嫌いな人には出会いませんでしたが、結婚して主人とは価値観の違いがありました。しかし、すべて神の子と思っておりますので大事にいたらず過ごしてきました。
 子供達が学校に上がる前、母がひとりになり色々事情が重なって母の家に同居することになりました。
 子供達が高学年になり、私も仕事を始めて4、5年たった頃、今までの毎日の積み重なった気持ちを母にいっぱい話しました。母は「人は魂の勉強する為に生まれてきているの。あなたは子供の事も仕事も何も心配することはないでしょ。だからあなたは夫で勉強しているの」彼はいい人だよとも。なーるほどと私はすぐに納得できました。今までも楽に生きてた方ですが、それからはずーっと楽になりました。
 同居することにより心の葛藤はありましたが、今では最後の最後まで母のそばにいられた事に感謝しています。
 生きていれば今年100歳です。尊敬してやまない大好きな母です。ありがとうございます。

※編集部註
埼玉教区の歴史を綴った『聖風』によると、地元越谷で〝41年頃北海道から転入した長谷川すみ枝夫人の行動的な指導とお世話が実り、着々と信徒が増え続け、4地区に新たに誌友会が開設されました。〟
また、〝昭和54年4月『白鳩』誌拡大に情熱をかけてきた長谷川すみ枝さんが伝道隊長となって、浦和、大宮の駅周辺において、伝道を継続し、伝道の歓びを体験した人々が、各地に伝道隊を編成するようになり、県下七ヶ所に拡がり、新しい活動者を育てている。〟と記されています。そして多くの方の個人指導をされました。昭和62年2月から平成元年9月までの2年8ヶ月間、教区白鳩会連合会長としても活躍されました。

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