忘れ得ぬ人々(33) 渡部悦子さんを偲んで 高橋節子

 悦子さんと親しくなりましたきっかけは当時自宅で開催されていた誌友会に出講させていただいた時からでした。
 練成会の炊事当番のペア総連になった時、大得意の味噌田楽の作り方を教えていただき、何度もチャレンジするも絶対に悦子さんの味にはならず、悦子さんに同じ味にならないことを伝えると「そうでしょう!」とあの明るい笑顔と、ちょっと得意そうな表情が懐かしく思い出されます。
 世が世なら会津のお姫様のような、おっとりの悦子さんでしたが、性格は男性的な面もあり、病が見つかった時、ご家族の方々が心配されますのを、少々うとましく思われ、ポロッと愚痴めいたことを話された時「悦ちゃんは生長の家で絶対大丈夫の信念は素晴らしいけど、ご主人や子供さんがどんなに心配されているか解っていない」と話しましたところ、すぐに「本当にそうだね、本当に解ってなかったね」とすぐに改められた純真で幼児の悦子さんに電話を切ってから涙いたしました。(後日、自分自身が病になり、主人が心配するのをうとましくなった時、その時の悦子さんを想い出し反省!)
 ある時、教区の会議が終わり、東浦和駅で運動の話が尽きず一時間以上の立ち話になり、どうしたら皆様が喜びの運動が出来るかの話でした。悦子さんは地元の前総連会長の宮崎智枝先生と親しくされ、その後任の御自身が先生のようにしなければとの責任感を重く受け止めて居られたのです。結局私達がお手伝いさせていただける事は、運動の一つ一つの丁寧な説明と教区から伝わって来たことをきちんとお伝えすると結ばれ帰宅しました。悦子さんの熱意、お人柄、備わったお徳により数々の運動の喜びを共有できました事は、その時節の大きな励みと信仰の広がりになりました。

 共に真理の研鑽、教区の運動をさせていただきました。が、今世の限られた時間の中、平成三十一年四月十九日、七十八歳で惜し
まれつつ昇天されました。お別れの際、お顔を拝見し、「悦子さんは今生の使命を十二分に果たされた清らかさと高貴さに溢れて
いられました。またどこかで必ず会えるのを楽しみに」とつぶやくと、「必ず会えるから!」と声なき声が聞こえる思いがいたしました。生死の因縁は避けられませんが、今お元気なら、悦子さんの得意なお料理の腕前がどんなにPBS活動に貢献できたかと改めて惜しまれます。

 教区の光明化運動をご一緒にさせていただけましたこと、あちらこちらの美味しいランチに沢山歩きましたこと、悦子さんの
温かい思い、明るい笑顔、優しい言葉に度々救われたことに、改めて感謝、感謝、合掌申し上げます。

ありし日の渡部講師

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