忘れ得ぬ人々 (37) 馬場トキ先生  喜多 和子

 「先生、白鳩会支部長会議に男の人が出席してもいいですか」電話の主は浦和円阿弥の馬場トキ先生でした。聞けば足腰の弱った先生を教化部まで送迎してくれ会議にも出席したい、その為に息子は会社を早期退職したとのことでした。 「はあい、大丈夫ですよ。後の席でお願いします」電話を切った私はしばらく何とも言えない感動に包まれました。 
「あの息子さんが…」

 当時先生は七十歳代でしたが、若い人の代理で毎回熱心に会議に出席されていました。自宅を開放し誌友会、母親教室を開催して若い人の育成にも力を注いでおられました。誌友会に出講させていただいた時「息子が私の信仰に反対し聖経や聖典を捨てるんです。〝お母さんが信仰していても家には病気の妹がいるじゃないか〟と。でも私は神さまと息子を信じて只ひたすら行じるだけです」と話してくださいました。その動じない信仰姿勢に感動したことを今も鮮明に覚えています。
 先生と生長の家のきっかけは長男さんの急死です。当時水道局に勤めていた長男さんが職場の上司から生長の家を伝えられ、その後、先生が引き継がれました。その頃孫の幼稚園の送り迎えをしていた先生は、若いお母さん達の話が夫の悪口ばかりに心を痛め自ら沖勝四郎先生(故人)の母親教室に熱心に通い、その後地元で教室を開催されました。また、特に講習会には全力投球で伝道。老人会の旅行で〝伊佐須美神社〟に参拝し「講習会目標達成」と祈願を出し最後にバスに乗ろうとした時「もしもしこの祈願を出されたのは貴女ですか、特に念入りに祈らせていただきます」と神主さんが言われたと喜んで報告してくださいました。普及誌を持って町内会を一軒一軒訪問し玄関先で時間をかけて悩みを聞いておられたとの事。その姿にいつも義母のことを尊敬していましたと洋子さんが話してくださいました。
 信仰に反対していた息子さん(次男)もとても良き理解者となり晩年の先生を助けてくださいました。
 今頃は天国で先生、長男さん、次男さんと三人で真理の話に花が咲いている事と思います。
 自分事よりも他の人の幸福を常に心がけ地元の伝道に全生命をかけられた慈愛の先生でした。
 毎年、年末になると先生から吾が家に煮豆が届きました。ふっくらとした大きな花豆に言葉が添えられていて、早くに母を亡くした私は涙と共にご馳走になっていました。私にとって母親の様な存在でした。先生本当にお世話になりました。ありがとうございます。

ありし日の馬場講師

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