葉っぱ一枚の美しさ 教化部長 木場 一廣

 前に出ていました『善き人生の創造』(谷口雅春先生著)にしみじみと見ることについて次のように書かれていました。『多くの人たちは、ものを染々味うということの値打を知らない、そして争ひや、金儲けや、奪い合いに没頭していて、「有つ」ことばかりに懸命になっていて、味うことの価値を閑却しているのであります。現象的所有の詰らない表面の価値に生きることや、儲けることや奪うことのみに心を捉えられて了って、本当の価値を看過しているのであります。人は「所有する」ことよりも「味う」ことに価値を見出したならば此の世界に本当の平和が訪れてまいりましょう』(原文は旧かな)この「じっと見る」ということで、かつて小学生練成会や熟年層、父母、相愛会でもよく一枚の葉っぱをよく見て描くということをしました。一枚の葉っぱをそれぞれ拾ってきて、ギザギザのあるところから虫の食ったところまでよく見て描くのです。その葉っぱは世界中を探しても一枚しかない貴重な葉っぱであると導入し、一枚の葉っぱの中に美しさを発見します。このじっと見ることの大切さのことで、写真家の故土門拳は写真を撮る手順が決まっていて、まず書物で「調べる」。次に「見る」。次に「感動する」。感動した後「凝視する」。これに時間を使うと云います。最後に「撮影する」と云うことになるそうです。
土門拳著の『古寺を訪ねてーー東へ西へ』(190p)に『写真を撮るに当たって、被写体も撮られる視点をもっていると思うのである。それは人物の場合はもちろんのことであるが、仏像も建築も自分の写される視点をもっているのだとぼくは考えている。ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そしてときには語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる。そして火花が散るというか、二つの視点がぶつかったときがシャッターチャンスである』つまり「ここだ」という美しさを被写体のものも示してくれるというのです。弟子の故西川孟さんはこれを経験し、師・土門拳の相手と一体になって自分がなくなってしまうのがよいと云うことを学んだそうです。私達も人の実相(本物の価値)をじっと観ること、自分が無我になって神・自然・人間は本来一体であると実感し続けたいと思います。2023年7月号

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