忘れ得ぬ人々 (38) 母の思い出 室伏 恵子 

 私の母・海野郁乃は、さいたま市南浦和に三十年ほど暮らしていました。今から十九年前に七十八歳で亡くなりました。
昔、母は新潟から長野市の海野家に嫁ぎ、産婆をしていたお姑さんから生長の家の教えを学んだそうです。私は兄妹四人ですが、子どもの頃母から言われたことで印象に残っているのは、「お母さんは四人の子供達を公平に、平等に、愛しているよ。大事に思っているよ」という言葉です。
無口ですが勤勉実直な公務員の父は、家族の為に一所懸命に働いていました。穏やかで優しい母は、いつも父を敬い、私達兄弟も仲良く、楽しく毎日過ごしていました。やがて皆、成長すると、兄弟も各々両親に心配をかける事もありましたが、強く叱責せず私達を信じて、静かに見守ってくれたと思います。過保護でもなく、過干渉でもなく「こうでなくてはいけない。こういう人間になりなさい」等々うるさく指示する事もなく、伸び伸びと育ててくれました。
その後、私も結婚し、家庭生活が始まりました。母は「夫を第一に、大事に尽くしなさい。お姑さんとは仲良く優しく接しなさい」と教えてくれました。やはり、家庭生活では、親類との付き合いで思い悩む事もありましたが、母からもらった『白鳩』誌や谷口雅春先生の御本を読み、勇気をもらい、また頑張ろうという気持ちになったものです。
母が亡くなる半年前位に、だいぶ体が弱くなりましたので、兄弟で集まり、話し合いをしました。毎月交替で実家に出向き、清掃、買い物、不要品の整理処分等、協力して世話をしました。その後、急に脳梗塞で倒れ、一週間で亡くなりました。実家の片付けも兄弟四人で力合わせて行う事ができました。これも両親が、公平に、平等に、分け隔てなく、育ててくれたおかげだと思います。子どもの頃の暮らしは、とても質素でしたが愛情深い両親のおかげで幸せに過ごせたと思います。
母は、教化部の早朝神想観等の行事に時々出向き、各地区の誌友会に講師として出向いていました。また、地元の誌友会には必ず得意の手料理を持参し、毎月皆さま楽しみにしてくださっていたとのことです。「生長の家は私の生きがいだ!毎日が楽しい!」と申していました。
晩年、体が弱くなり、教化部、白鳩会、相愛会、地元浦和の皆々様には、大変お世話になりました。車での送迎をはじめ、何かと手助けしていただき、深く深く感謝申し上げます。皆様に支えていただき、幸せな信仰生活を送っていたと思います。私もこの素晴らしい教えを学び、益々精進し、人々の光明面を見る生活をする決意です。

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