忘れ得ぬ人々 (39) 宮崎智枝先生を偲んで忘れ得ぬ人々 樋口美津江

 生長の家埼玉県教化部から紹介されて宮崎智枝先生にお会いしたのはおよそ三十年前。
 私は、あることで心が折れて暗い毎日を送っていましたが先生は機会あるごとに「大丈夫・大丈夫・・・」といつも優しく寛大にお話を聞いてくださり、少しずつ私の心が癒されていきました。
 先生は独身の頃、看護師の見習いで病院に勤めておりましたが体調を崩し心臓を患います。勤務先の病院の奥様より生長の家の冊子を頂き、昭和三十四年十九歳の時、谷口雅春先生のご講習会に参加したのがきっかけで生長の家を信仰することになります。
 その後、毎日五分間合掌してから『甘露の法雨』を毎日一か月間読み、心臓肥大症が癒えた体験があります。
『人間は神の子で知識も名誉も要らない素直が一番!』ということを生前、よく言っていました。
 先生は、満州で生まれクリーニング屋を営むご両親の元、幼少時代を過ごしました。敗戦とともに父親は、ソ連に強制連行されましたが夜な夜な川を歩き自宅に戻ってきました。
 家族で貨物船に乗って瀕死の想いで帰国した後は、鹿児島の天草に身を寄せ生活されたということです。
 又、平成十年に乳がんを患いリンパ腺にも転移して余命三ヶ月と宣告されます。四時間の手術が終わり集中治療室に運ばれると谷口雅春先生の夢を見て『実相のみ』という声を聴きます。それから、間もなく管が外れ大懺悔ののち一週間ほどで抗がん剤を使うこともなく二十一日間で退院することができました。先生が退院して、間もなく伺いますと、既に日常着で洗濯を干しているところでした。私はその気丈さに大変驚きました。他に多くの体験をお持ちでした。
 白鳩会副会長、そして総連会長を長く拝命して、新座のお母さん的存在で多くの方から慕われました。教化部へ行くと多くの方に声を掛けられていました。
 『神想観の実修は必ず毎日一回やって行を重ねてまいりますことは信徒にとって一番大切なことです』等々、沢山のお言葉が私の胸に刻まれました。
 私事になりますが会社の事、主人の事、娘や息子の事、そして愛犬の事まで私の大切な人たちをいつも暖かく祝福してくださいました。
 宮崎先生は、ご主人をとても大切にされた方ですが令和四年二月二七日享年八七歳、入院先の病院で亡くなられました。その日は丁度七年前に昇天されましたご主人様のご命日でした。
 宮崎智枝先生のご冥福を心からお祈り申しあげます。 感謝合掌

宮崎講師(右)と樋口さん

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